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台風でゼロに戻っても諦めない。 91歳の長老が語る、海上に道を渡した挑戦の物語。

©OCVB

沖縄県中部、東海岸に位置するうるま市。太平洋に突き出した与勝半島から伸びるのは、全長約5.2キロの海中道路。その先に平安座島(へんざじま)、浜比嘉島、宮城島、伊計島の4つの島が橋で繋がっています。
「海中道路」と書きますが、実際は海の中ではなく、海の上を通る道路と橋。1972年に完成した海中道路は、4つの島々と沖縄本島を結び、島の暮らしに欠かせない道になっています。

それまで、島嶼地域と沖縄本島間を行き来するには干潮時に浅瀬を歩いて渡るか、満潮時に手漕ぎの小さな渡舟を利用する方法しかありませんでした。急病人や出産目前の妊婦さんを病院へ搬送しなければならない時などは、大人数名が大きな板に人を乗せて舟まで運ぶ…など、多大な苦労もあったと言います。

「島々と本島が離れていたころの生活には、今では想像し得ない離島苦があった」と話すのは、当時のことをよく知り、今の海中道路の礎を作るために尽力された元与那城村(よなしろそん)村長の奥田良正光(おくだら しょうこう)さん。

「島々が沖縄本島と繋がっていなかった時代、離島の暮らしにはさまざまな苦労がありました。農産物・海産物を販売するにも、購入するにも、渡舟で移動しなければならない。舟といっても、小さなくり舟です。舟を出せば経費もかかるし、利益は少ない。病人や産婦を運搬するにも時間がかかり、途中命を落とすことも度々あったといいます。健康な大人でも、島から研修のために本島へ向かう途中に、舟が転覆して8名もの未来ある若者たちが命を落としたんです。これはもうなんとかしないといけない…」と。

本島との行き来が不便であることを理由に、さまざまな離島苦を経験してきた島の人たち。

そんな状況を打開するために、沖縄本島と島嶼地域を結ぶ橋を作ろうと立ち上がったのが奥田良正光さんです。

「橋を作ろうと言っても、当時はそれを行政がサポートしてくれるような時代ではありませんでした。島の人たちの中には〝空に橋をかけるようなものだ〟と、捉える人もいた」といいます。

「それでも生活をなんとかしないといけない。島おこしをしないといけない…と、まずは中学校2、3年生の学習発表会で、海岸から沖に向かう中で、どこが一番潮のひける場所なのか、石を置いて道路を作るならばこのへんかな…とイメージする授業をした」のだといいます。

その次は海中道路をテーマに、子どもたちに議論させる場所を作ります。

「作る、作らない…の前に、橋を作ろうという空気感をつくるためのものでした」

高まった空気感を背に、島の人たちの力だけで橋を作ろうと、新たな一歩を踏み出します。

「ある一人の島の人がハワイから戻り、たったひとりで海のサンゴ石を集めて、だいたい2〜300メートルくらいの道を作ったんです。それを見て、あんな風にできるのだから、みんなの力を合わせようじゃないか…と、大人から子どもに至るまで全員がバケツやザルに石を乗せて運び、海中道路を作り始めたんです」。

一方で、具志川(ぐしかわ)、与那城(よなしろ)、勝連(かつれん)の市町村が一緒になり、琉米親善委員会に海中道路を作るための相談を持ちかけます。すると演習のつもりで…とブルドーザーを出し、砂を集めるなどして協力。

「地元住民もお金はない時代でしたが、世帯から少しずつお金を出し合い、協力してくれた米軍にパンや、コーラを購入してお礼をしたんです」。

着工から半年後には、幅約20メートル、長さ1900メートルまでに達しました。ところがそんな矢先に大型の台風が沖縄を襲い、完成間近だった道路は大きな被害に見舞われてしまいます。

「石の残骸だけが残って…。あと1/3くらいで完成というところで一晩で破壊されてしまったんですよ。夢破れてもうガッカリです」。

希望を目前に崩されてしまった道路。島の人たちの悲しみは想像を超えるものだったに違いありません。その状況を目前に「できないことをやるからだ…」と後ろ向きな姿勢を見せる人も出てきたといいます。

「それでも橋を作ろうとしたという意気込みは、後世に残すべき歴史の一ページで、誇りを持つべきことだ。もう一度挑戦してみようじゃないか。動かなければ始まらない。動いてはじめて歴史も動く、それが大事だ」と、奥田良さんは、打ちひしがれる島民を鼓舞し続け、島の人たちでお金を出し合い、コンクリートでの橋づくりに再挑戦します。

そのころ、アメリカの石油会社の「ガルフ石油」が宮城島に石油基地を作ろうという話が持ち上がります。80パーセントほどの人たちが賛成したものの、「土地を守る会」という20パーセントの人が基地参入に反対。当時は闘争小屋ができるほど、一触即発の状況に。反対運動は島民の暮らしにも影響を及ぼすほどになったため、宮城島への誘致は諦めざるを得ない状況となります。宮城島への参入を諦めた「ガルフ石油」が、次の拠点候補として、石垣島の白保に目を向けていることを知った奥田良さんたちは、平安座島へ誘致するため水面下での交渉を始めます。

「それでもそう簡単には進みませんでした。平安座島は丘陵地域のため調整が厳しかった。それに、宮城島のように反対がでてはまた頓挫してしまう」。

皆がお金がなく、行政のサポートも充分でない時代でありながら、それでも島の振興をなんとかしようと、石油基地誘致のために住民大会や説明会を何十回も開催。島に基地が来なければ、暮らしは今のままであることを説き続けます。最終的には島の人ほとんどの理解を得ることに。

「もちろん、オールオッケーではなかった。それでも諦めずになんども話合いを繰り返しました」。

ようやく平安座島の住民たちの賛同を整え、参入の可を企業側に提示した奥田良さんたち。

「そこでようやく交換条件として海中道路を作ってもらうよう提示しました。これが一番の目玉だったわけです。僕らの企業の参入の交換条件である海中道路を作ること。それを錦の旗に掲げていました。企業が島に基地を作れるよう状況を整備したところで、そこに働く人の足、物流のために道路が必要だと訴えた」のだといいます。

当時はまだ琉球政府の技術者のいない時代。まず、約1年の調査、設計の専門家を呼び、金武湾と中城湾のふたつの潮が接触する場所を探りあてます。今の海中道路が緩やかなカーブを描いているのは、ふたつの潮流がちょうど合わさったラインなのだとか。
調査を経て1971年に着工。島民の悲願でもあった海中道路の完成は、島民たちが力を合わせて挑戦を始めた1961年から約10年の月日を経た1972年のことでした。

企業誘致による交換条件として完成した道路は、企業の寄付により村道として認定。その後、さらに拡張や整備を整えるために、国道認定への動きを続けました。ここでも反対派の意見がなかったわけではありません。
「海中道路が県道に認定されれば、その延長として浜比嘉大橋を建設することができます。県道として認定されれば、島民の負担はゼロ。もしこのまま村道でいれば一人頭100万の負担をしなければならない。現実的ではない金額です。一方沖縄県道として認定し、浜比嘉大橋を架けることができれば、次、そしてまたその次の世代に渡って生活に及ぼす暮らしの豊かさは机上論では説明が出来ないほどのものだ。100年先、200年先を見据えていきましょう」と訴え続けたのです。

島の人へ橋の重要性を説くことから始まり、海中道路の建設、石油会社の誘致、そして村道から県道への道路認定においても、常に未来への効果を考え続けた奥田良さん。

「投資効果という言葉がありますが、それは決して今の時代だけのことを見ていてはいけない…というのが私の持論です。島を興すには産業を興すことが必要。今の時代、そしてその次の世代に及ぼす豊かさを求めて行動する必要があります」
と根底にある思いを語ります。

離島苦の時代、現状に甘んじず200年先の未来を見据え続け、理想の実現のために奔走した奥田良さん。
「むるあつまいねないんどー(みんなが集まったらできる)」という言葉を掲げ、なんども夢砕かれる事態に見舞われながらも、島の人たちへの協力を仰ぎ、チャンスを自らで引き寄せ、苦境に見舞われても挫けることなく前に進み続けたその理由はなんだったのでしょう。

「もちろん、人間ですからくじけることもあります。それでも底辺には大きな情熱がある。みんなで今の状況をなんとかしないといけない…という使命感です。失敗もあるけれど、子どもたちや孫たちの将来のために、海中道路を作ろうとしたという事実は、歴史に残すべき誇りあることだと。そういう気概が島にはあると思います」。

今となっては、当たり前のようにあり続ける道。沖縄観光スポットのひとつにもなっている「海中道路」ですが、その裏には先人たちの並々ならぬ情熱、気概があります。島々に訪れる旅に、挑戦を続けた先人たちの姿を思い起こさざるをえません。そして先人たちの姿からは、苦境に負けず諦めずに前だけを見据えた姿勢そのものが、未来に繋がる歴史をつくる…ということを教えてくれます。

「今の時代はインターネットも普及して情報に溢れている。でも、その情報のひとつひとつの本質を見抜く力が大切。表面的な物に惑わされず、物ごとの深さを見抜かないといけません。様々な状況を見て、自己改革意識を持ち、自分で道を決めることが大切。自分で決めたことなら責任転嫁することもなく、自分の出した答えに向かって突き進むことができます。相手がどう言おうが、理屈ではなく自分の責任で決める。とにかくthink and doです」。

私たちの暮らしのなかでも、多種多様に悩みは生じ、その解決に向けた決断の時期は、大なり小なり生じています。
その決断や行動の時期に、何を見据えて、どこへ向かうか、物の本質を見極めること。
挑戦を続ける中での他者への理解を求めつつも、最後は自分の信念で責任を持って決めること。
100年、そして200年先の未来を見据えた行動。
失敗を失敗と捉えず、前へ向かった証として捉える心のあり方。

島の挑戦の歴史は、私たちの挑戦に対する最大のエールです。
そしてさまざまな挑戦を経験してきた島々には、100年後、200年後の未来への可能性が溢れています。

●参考動画
沖縄県公式チャンネル「海中道路-明日へ向かう道-」
https://www.youtube.com/watch?v=z4o9VUz1dDA

●取材協力者プロフィール
奥田良正光(おくだら しょうこう)
1929年2月、平安座島生まれ
元与那城村農業共同組合組合長
元与那城村村長
元沖縄県市町村職員年金連盟会長
元株式会社サンプロジェクト代表取締役
(現株式会社久和建創)ほか