1. HOME
  2. ブログ
  3. 【挑戦者インタビュー02_ 前編】最大の悲しみを乗り越えて。大阪で肉屋を営んでいた南さんの新たな挑戦

【挑戦者インタビュー02_ 前編】最大の悲しみを乗り越えて。大阪で肉屋を営んでいた南さんの新たな挑戦

海中道路を渡り、最初に到達する島「平安座島(へんざじま)」。昔ながらの赤瓦屋根の古民家がちらほらと残るしまの集落に、2018年10月にオープンした」「肉や食堂inへんざ」 があります。店を切り盛りするのは、南亜裕里(あゆり)さんと、息子さんの雄大(ゆうだい)さん。大阪府門真市から移住し、新たな挑戦をスタートさせました。

オープンしてから1年とわずか、しかも決してわかりやすい場所ではないというのに、平日でも店内は満席状態。特に週末になると県内各地はもとより、観光客がひっきりなしに店を訪れます。お目当てはA4、A5ランクのブランド和牛。大阪で肉屋を営んでいたルートを生かし、驚くほど安い値段で提供しています。「こんなに美味しいお肉食べたことない!!」という感嘆の声が店内に広がります。

南さん家族が、この島嶼地域に移住を決めたきっかけはとても複雑なもの。若くして癌に侵された亜裕里さんの夫が、闘病中にテレビで見た沖縄暮らしに憧れたことから、このストーリーは始まります。
それまで南さん一家は、亜裕里さんのお母様の代から続く肉屋を大阪で営んでいました。毎日店頭で接客に勤しみ、寝る暇も惜しんで働き続けたと言います。当時からブランド牛をできるだけ安価で提供し、できるだけたくさんの人に美味しいお肉を味わってほしいとの思いで続けてきた肉屋は、常連客も多い繁盛店。
亜裕里さんの夫が病床に伏したことを機に、長男の雄大さんも店を手伝い、亜裕里さんのお母さんを含め3名で必死に働いていたなか、「沖縄に住みたい」という夫の願いを叶えようと、まずは沖縄に家族旅行することからスタートしました。

「最初の旅行は、一般的に皆さんが訪れるような場所を観光しました。その時はまだこの場所がある東海岸の地域を知らなくて。初めて海中道路を渡って島々を訪れた時、まだこの周辺には昔ながらの沖縄が残っているなって感動したのを覚えています」と当時を振り返る亜裕里さん。

「先が長くない夫のためにいち早く沖縄暮らしを実現させようと準備を整えました。まずは長男が沖縄に進学できればいいなと思っていたのですが、大学推薦受験の前日、夫の夢を叶えることができないまま、天国へ行ってしまって…。悲しみも癒えないまま私の事故や、障害を持つ次男の心臓の手術…など、今考えても当時なにがあったか思い起こせないこともあるほどです。次男の手術が無事終えた事をきっかけに、再び沖縄にきました。夫の思いがずっと頭から離れず、沖縄でアパートを借りる事にしました」。

日々の忙しい毎日のなか、夫に先立たれた悲しみを癒してくれるのは、Googleマップで見るしまの景色。

「次男の手術は成功したのですが、1年間は療養のため大阪を離れることができず。その間、何度もこの海中道路を地図上で行ったりきたりしました。もう何往復したかわからないくらい(笑)」今でこそ屈託のない笑顔で話す亜裕里さんですが「まだ夫が亡くなった事実を受け入れられていない自分がいるんですよね」と、切ない心中もぽろり。

そんな矢先に、しまで空き家が売りに出ていることを知った亜裕里さん。すぐに現地へ向かい、この場所しかない!!と購入を決意。その日のうちに銀行に足を運びローンを組むほど、勢いのある行動に。

「石垣が連なっている景色とか、周囲に住んでいる皆さんがとても優しい雰囲気だった…とか、目の前に大きな木があって風が抜ける空間とか、自分の希望が全部詰まっている場所に感動してしまって。即決でしたね」。

一旦大阪へ戻るものの、それまで大阪の肉屋を代表して切り盛りしていた亜裕里さんのお母さんが倒れ仕事ができない状態に。大阪の肉屋をたたむことを決意したものの、その時点で50件以上あった注文に応えるため、2ヶ月で引っ越しのための準備を整え、沖縄でスライサーを購入しお客様への対応をしたのだとか。

「家を購入した当初は3年くらいかけてゆっくりリフォームして、家族で移住できたらいいな…って考えていました。肉屋じゃなくてお弁当屋さんとか、食堂でも開こうかなとも思っていたんです。でも機材は揃っているし、もうお店やるしかないな…」と。
周囲に押されるようにして開店した「肉や食堂 in へんざ」。日々の暮らしのなかで起こるさまざまなことに、常にプラスのエネルギーで応える亜裕里さん。念願だった沖縄ぐらしをはじめるも、待ち構えていた壁に、心を落とす日々もあったと話します。
そんな壁を乗り越え、明るく前向きなエネルギーを振りまく亜裕里さん。一体何がそのモチベーションとなったのでしょう。

02へ続く。

関連記事